赤門の寺 法蔵寺

法蔵寺の歴史

法蔵寺の歴史
法蔵寺の歴史イメージ

法蔵寺は、正式には「真命山 心光院 法蔵寺」といいます。宗旨は浄土宗です。
 開創は、康応元年(1389年)10月です。日本国を二分した南北朝の戦いの折、南朝方に味方して敗れた「新田義貞公」の孫(義宗の子)良徳という方が、一族の菩提を弔うために仏門に帰依し僧侶となり、はるかに下向して下野国倉ヶ崎村(現在の日光市倉ヶ崎)に寺院「心光院」を建立したのが始まりと伝えられます。

良徳上人は、開山間もない明徳5年(1394年)5月に遷化されました。法名「幽蓮社玄譽上人良徳大和尚」。
 それ以降、歴代住職は、広い地域の振興を集め、倉ヶ崎の山の中腹に開かれた寺を護ってきました。ちなみに天正年間(1580年代)心光院近くに倉ヶ崎城がありました。

江戸時代に入り、第9代勤譽曄運(ごんよよううん)上人の時、徳川御三家の本陣が置かれ、格式と賑わいを見せていた宿場町、大桑町(現在地)にお寺が移されました。高台に位置されたことから、仏の加護が徳川家と地域の人々に覆うことを願ったと伝えられます。この時、名を正式に「真命山 心光院 法蔵寺」としました。正保2年(1645年)6月でした。

当時の法蔵寺は、七堂伽藍(しちどうがらん)といわれる広大な境内と数々の堂宇が並ぶ壮大な寺でした。下寺(したでら=末寺:支配下にあった寺)は20ヶ寺を数えるほどの勢力でした。現在法蔵寺の檀信徒が広範囲に広がっているのはその為です。
 しかし、明治元年(1868年)の戊辰戦争の折、大桑町周辺はその戦火をうけ、灰燼と帰しました。法蔵寺も、その堅強な堂宇と地の利を生かされることを恐れた官軍により、火をつけられました。歴史的大改修を終えたばかり、落慶の3日後でした。
 幸い、ご本尊様(阿弥陀如来立像)や歴代住職の位牌、徳川家の位牌、過去帳、霊験ある仏菩薩像など持ち出すことができたので、今にその信仰を伝えることができました。

長年、仮本堂のままでしたが、昭和56年(1981年)、宗祖法然上人生誕750年を記念し、住職の勧進と檀信徒の渾身の総力により現在の本堂が完成しました。まさに法蔵寺が復興の第1歩を踏み出すことができたのでした。
 そして28代住職(現住職)は仏法を伝えるための客殿(きゃくでん=集会会館)や鐘楼(しょうろう=釣り鐘堂)を、厳しい時代にもかかわらず、檀信徒の理解と協力を得て整備しました。
 法蔵寺は、地域の安寧を祈るとともに、教育にも貢献してきました。長年、「寺子屋」として地域に学問と道徳を伝えてきました。寺子屋のあと、「志導舎(しどうしゃ)」という学校が開かれ、それが現在、日光市立大桑小学校となりました。

法蔵寺は、会津西海道の杉並木を抜けた小高い丘の上にあるお寺らしいお寺です。正面には20段ほどの大きな石の階段があり、その先に長い石畳、そして赤門(山門)に到ります。この参道は、人の手で山を切り開いて作られたもので、今でも参道脇の両側には、掘り起こした土が高く積まれ、土手になっているのが見られます。当時の方々の大変な努力と信仰の尊さを感じます。

現在、法蔵寺は、現世の宗教事情を憂い、「葬式、法事だけでなく、なんとか多くの方に法蔵寺に足を運んできただき、仏法を、今を生きるためのヒントにしていただきたい」という願いをもって、活動を続けています。境内の草花、雅楽、写経・・・・そのすべてにメッセージを込めています。ぜひ1度、法蔵寺を訪れ、現代における仏教の存在意義を感じていただきたいと思います。

法蔵寺の赤門
法蔵寺の赤門イメージ

法蔵寺の山門は「朱(しゅ)」に彩られた赤門です。そしてこの門は、明治初期の戊辰戦争で焼け残った当山唯一の江戸時代建造物でもあります。赤門は江戸幕府(徳川将軍)の許可必要であり、またそれ相応の寺格(じかく=お寺の格式)が必要でした。法蔵寺は①皇族にゆかりがある。②数々の下寺(末寺)を持つ大きな本寺である。③毎年11月行われる「十日十夜法要」が特別に許された寺であり、「一子相伝双盤念仏」を代々伝えている。など格式が高い歴史があります。また歴史的に徳川家の菩提を願う、また徳川御三家本陣を守る役目があったことなどから赤門が許されました。
法蔵寺には、かつて寺子屋があり多くの方が法蔵寺で学びました。明治になって小学校となり、それが現在の日光市立大桑小学校になりましたが、かつてはこの門をくぐって通学し卒業していった方は、東京大学の赤門になぞらえて、「私は赤門出なんですよ。」と自慢したという逸話が伝わっています。

以前、赤門の屋根瓦は、近くで採れる大きな「船生石(ふにゅういし)」が使われていましたが、その重さのため傷みがはげしく、昭和52年(1977年)に現在の銅板に葺き替えられました。その時の石瓦は赤門の傍らの林の中に積まれ、今も記念に残されております。

戊辰戦争の戦火を受けた「カシノキ」
戊辰戦争の戦火を受けた「カシノキ」イメージ

明治時代、新政府軍と旧幕府軍が争った「戊辰戦争」。その戦火は日光、今市にまで及びました。法蔵寺のある大桑も大きな戦火にあい、法蔵寺は戦の要所として新政府軍に焼き討ちされました。幸いご本尊様や徳川家の位牌、過去帳、いくつかの寺宝は持ち出せましたが、赤門を除き建造物は全焼となりました。本堂すぐ傍にある「カシノキ」は本堂が焼ける炎を浴びましたがかろうじて命をつなぎ、戊辰戦争を今に物語っています。

庚申塔・念仏講記念碑・供養塔
庚申塔・念仏講記念碑・供養塔イメージ

悪霊や疫神を追い払うため青面金剛をまつって道ばたなどに建てられた「庚申(こうしん)塔」。今でも「庚申信仰」としてあちこちに見かけられますが、当山境内の庚申塔はひときわ大きく、形も整っているので有名です。高さは約4メートル。昭和24年(1949年)の今市地震にも耐え、三百数十年間、他の供養塔とともに後の世の私たちに信仰の尊さを教えてくれています。

「庚申信仰」は、庚申(かのえさる)の夜に眠ると三尸(さんし)の虫(=皆が生まれながらに持つ体内の虫)が体内から抜け出して、その人の悪行を天帝(てんてい=命を司る者)に告げ口し命を縮めさせるため、その夜は皆で物語りなどして眠らず夜を明かす、とされる信仰です。

寺宝 十王絵図(じゅうおうえず)
寺宝 十王絵図(じゅうおうえず)イメージ

冥土(めいど=死後にゆく世界)にいて、亡者の罪を裁く10人の判官が十王で、えん魔大王もその一人です。この王のもとで、それぞれ生前の罪に応じて地獄の鬼たちから、むごい仕打ちを受けている様子が10幅に描かれています。死んだ後の苦しみ示して、いま、人のために尽くす(善行)ことを勧めます。江戸時代中ごろの作で作者は不明ですが、色も鮮やかで比較的よく描かれています。この絵は、地元の交通事故防止の看板に採用されたりしました。毎年8月のお盆のとき本堂内に掲げ、お参りの方々にご覧いただいております。なお各絵図の詳しい説明は、お軸と共に本堂内に掲示しています。

天然記念物 法蔵寺の「いとひば」
天然記念物 法蔵寺の「いとひば」イメージ

法蔵寺がこの地(日光市大桑町)に移転の際、植えられたものと伝えられます。「いとひば」でこれほどの大木は珍しいといわれます。日光市の天然記念物に指定されているほか、平成元年(1989年)6月、「とちぎの名木100選」にも選ばれました。この「いとひば」は、2本一対で植えられたらしく、もう1本は石庭の中にありますが、雄々しさはこれに及びません。樹齢約400年、樹高は約25メートルあり、法蔵寺のシンボルです。

私たちの宗旨
  • 名  称浄土宗
  • 宗  祖法然上人(源空)
  • 開  宗鎌倉時代の承安5年(1175)
  • 本  山総本山 知恩院(京都)
    大本山 増上寺(東京)光明寺(鎌倉)善光寺(長野)ほか
  • ご 本 尊阿弥陀仏(阿弥陀如来とも申します)
  • 中心教義「南無阿弥陀仏」の称名念仏の功徳を教えとします
  • お  経お釈迦さまがお説きになった『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三部経などを読みます
境内の勢至丸さまイメージ

境内の勢至丸さま

法然上人とその教え

私たちの浄土宗は、法然上人によって民衆のために開かれた宗旨です。上人は美作国稲岡ノ庄(岡山県)のご出身で、幼名を勢至丸と申します。9歳の時父君の非業の死にあい、遺言によって出家されました。やがて京都の比叡山にのぼり、学問や仏教の奥義をきわめ、「智恵第一の法然房」とまで評されるほどになります。しかし、上人の願いは学問もない凡夫の一般民衆がだれでも平等に救われる道を求めることにありましたので、さらに教えを求め、寝食をも忘れて経典と取り組み続けました。そしてついに、唐の善導大師の教えの中から念仏功徳の確信を得られたのです。ときに上人43歳の春のことでした。

法然上人は、阿弥陀仏如来の本願(お誓い)を信じ、心をこめて口に「南無阿弥陀仏」と称えることによって、明るい安らかな毎日を送ることができ、また、どんな愚かな罪深い者でも、お念仏を称えればいっさいの苦しみから救われ、そのままの姿で立派な人間へと向上し、お浄土に生まれることができる、と教えられました。私たちにとっても毎日が、明るく(仏)正しく(法)仲よく(僧)生きられることがなによりであります。それはまさに念仏する生活であります。おごらず、謙虚で素直な気持ちになってお称えするお念仏。まさに心の健康でありましょう。

このようにお念仏の教えは、来世の安楽を願うためばかりでなく、現世を生きる私たちへの救いのための教えであります。念仏は願い求める声であります。宗教の心が失われつつある現代。今こそお念仏が大切であると法然上人は教えてくださっているのではないでしょうか。